080-1053-8386
神奈川県 横浜市青葉区あざみ野2−28−10−202
10:00〜21:30(最終受付19:30)
感じてもいいし、感じなくてもいい。
第32期ボディクラス:第3&4回(2018年4月6、12日) 参加者:ことこ、ひとみ、Tommy、ゆみ、よっしー、りょうこ 自分でも、何に挑戦しているのか、わからないのだけど。 やらなければいけない、と自分で思っていることを、いつまでやらないでいられるか、 ということに、もうずいぶん長いこと、挑戦しつづけている、ような気がする。 それによって、必ず、そんなこと(やらないでいること)やらないで、さっさとやれば よかった、 という結論になることは、いつもいつもいつもいつも、わかっているのだけれど。 どういうわけだか、自分でやらなければいけないこと、をやらない、 ということに、チャレンジしつづけている。 ダラダラしたい、とか、ズルズルしたい、とか、グータラしたい、とか、 汚れたい、とか、汚いままでいたい、とか、だらしなくしたい、とか、 しょーもない自分の欲求には、すなおに従う。 そして、自分をどんどん、嫌いになる。 捨てたくなる。 いなくなりたくなる。 …でも。 捨てきれなくて。 結局、こんなわたしを立ち上がらせるのは、わたししかいない、と気づく、 ということを、繰り返す。 なに、このバカな繰り返し。 それを、気づけば、15のときから、ず~~~っと、やっている。 なにしてんだか。 15~18のときは、まだ、それでも、羞恥心、とか、見栄、とか、 希望、とか、理想、とか、怒り、とか… 細胞の細部が、今、生まれている感覚、というか、 生々しいエッジ感があった。 今、生きてるここが、自分のライフの崖の突端で、 その向こうはほんとに無、な、生々しい生の感覚が。 でも、18のとき、「あたしの人生は、終わった」と思った。 あ、あたしは終わりだ、と。 19~22のときは、ただの自堕落になった。 23はなぜだか、生きてる感じがしていた。 明るい一年だった。 24から、死んだ。 そのあと20代は、自分を、殺した。 30~33は、父の“ほんとの死”に直面し、34は覚えていなくて、 35で気がついたときは、「もう、取り返しがつかない」と思っていた。 ああ、そうか。 人間、どうやら、やり直しがきく、っていうのが正解らしいけど、 でも、あたしの人生、もう、取り返しがつかない、と。 36、37、38…と、「やばいやばいやばい」と思っていて、 39でとうとう、「病気」の看板をもらいました。 自分のつま先で立っている場所すら、この地球上にはないように感じていて。 前にもうしろにも、左にも右にも、上にも下にも、どこにも、 自分がいていい場所はないように感じていました。 「1+10」は簡単だったはずのに不安でわからなくなり、 「1+1」でさえ、わからなくなり。 呼吸のしかたが、わからなくなり。 なにも、やりかたが、わからなくなり。 いろいろ、忘れてしまいました。 自分を「いらない!!」と思っていたけど、 「こんなあたし、あたしは、いらない!!」と思っていたけど、 気がついたら、自分の脳に、わたしは、捨てられていました。 なんにもできないまま、3か月が過ぎ、 会社に行けないまま、5か月が過ぎ。 あるとき、ついていたテレビに雪景色が表れ、「初女さんのおにぎり」という タイトルを見たとき、「あ、これはわたしにとって大切な番組が始まった」と なぜか思って。 NHKのその佐藤初女さんの番組が終わったあと、起き上がることができました。 そして、包丁でにんじんの皮をむいて、じゃがいもの皮をむいて。 「あ、あたしにも、できることがあった…」と、気づいたのでした。 あ、洗濯ができた。 あ、スーパーで何を買ったらいいかわからなくならずに買うことができた。 あ、電車に乗れた…。 自分にできることがあることに、少しずつ、気づいていきました。 駅までの道中に、畳屋さんがあって。 深夜でもそこだけいつも電気がついていて、腰の曲がったおじさんが作業をしていて。 この街に住み始めてから5年以上、その姿を見てきていました。 あるとき、その姿に突き動かされるように、「あたしも、働きたい」と思いました。 それで、今の職場に、戻ることができました。 会社に行けなくなってから、7か月が過ぎていました。 復職して1~2年、つまり、40~41のころのことは、記憶は、あまり、ない。 でも、マリーズケアに出会い、ことこさんに出会い、 ボディクラスに入り、メンタルクラスで学び、フェイシャルクラスも経験し… 42、43、44、45を暮らし。 もうすぐ46になろうとしているときに。 あたしは、なにか、つかんでおかなければいけないものを簡単に手放してしまい、 捨てていけばいいものばかり、ぎゅっと握りつづけて手の中で腐らせている… と感じています。 全然、これは、今回のワークでの体験の感想ではなくなってしまっているけれど、 でも、今のこのわたしは、今回のワークを経験した上でのわたしだから、 今回のワークの感想ではない、とは言い切れないのだ、と思いつつ。長い前置き。 なんで今さら、こんな振り返りをしているんだ、とわれながら思うけれど。 上がってきたのがこれだった…というか、これを書いてからでなくては 自分と向き合えなかった、というわけなので、お許しください。 で、ワーク。 はだしの、ワーク。 マリケアから「わーい」と飛び出して、ゆみちゃんに見守ってもらって、 目を閉じて、両手のひら・両足の裏を使って、手探り・足探りで公園を感じる。 すぐそばを、車が通る音がする。 その音の近さで、ずいぶん公園の端を“探索”していることは理解する。 靴音がしてくる。 気配を感じる。 それは、マイナスの、気配。 マイナス感情の。 「なに、この人(たち)」と思われているのが感じられる、負の気配。 靴音が遠ざかっていっても、そのわたし(たち)に向けられた「不審」の 感情は、わたしに刺されたまま、靴音といっしょに負の感情が糸を引く。 すぐ脇を“先輩”(幼児)がキャッキャと走り抜けるときは、 なにも感じないのに、それを見守る保護者の“揺らぎ”は感じる。 木や草たちは、“先輩”と同じ。 負の気配なんてものはまったく感じない。 感じられるとすれば、“おまかせ”の空気。 「はいはい。どうぞ、あなたの好きなようにしなさい」というような。 だから、わたしは、安心して、木に抱きつく。 わたしの手で、ほっぺで、鼻で、胸で、おなかで、ももで、足の裏で、 ぜ~んぶで、「ねぇねぇ、(桜の)木さん。ねぇねぇ!!」とくっつく。 木は「はいはい。好きなようにしたらいいわ」と、からだをあずけてくれる。 ゆだねてくれる。 わたしが感じたいように感じさせてくれる。 なんにもしてこない。 ただ、わたしが感じたいように、まかせてくれる。 まんま、そこにいてくれる。 わたしは、だから、安心して、抱きつく。 それを、不審げに見ているのであろうエネルギーを、靴音方向から感じながら。 でも、ゆみちゃんがいてくれるから、あたしは、だいじょうぶ。 好き放題、させてもらう。 かなりの許容度で、好き放題させてくれるゆみちゃんのサポートにくつろぎながら。 あたしも、この木みたいになりたい、と思う。 こんなふうに、「さあ、あなたの感じたいように、感じたらいいわ」と、 からだを開いて迎えられるひとになれたら、と思う。 「感じてもいいし、感じなくてもいい。あたしはここにいる。あなたは、あなた。 あなたのやりたいようにやったらいい」 すげ~なぁ、木は。 すげ~なぁ、公園は。 すげ~なぁ、先輩は。 気持ちいいなぁ…。 気持ちいいなぁ、この風。 気持ちいいなぁ、この光。 いいなぁ、このワーク。 サポートする側の役になって、みんなのワークする姿を見ながら、にんまりする。 ゆみちゃんの、ダンスするような、うしろさがりの“探索”。 木に背をあずけて、なにかを感じている姿の、美しさ。 遠くでペアになってワークするクラスメートたちの、美しさ。 春の光の中で、緑の若葉が美しくて、風がここちよくて、 足裏のセンサーが刺激されて、胸の窓がひとつ、また開いたようで…。 オープン。 そして、翌週のからだに触れる手技で、ことこさんが強調する「抜く」の大切さ。 「ゆっくり『抜く』ときに、大事に丁寧に『引く』ときに、 大切にされていると感じられる」 「ゆ~っくり放すときに『引く』『とる』」 「『抜く』『手放す』が『生きる力』を思いださせていく」 聴くたびに、深まる。 触れるたびに、深まる。 触れられるたびに、深まる。 わたしは、手放し方と、触れ方が、まだまだまだまだへたっぴだ。 やっと、自分を、感じられるような状態にできるかどうか、というところに もってきつつある、のかもしれない。 まだまだまだまだ、自分がわからない。 自分を、知らない。 自分の荷物を下ろすやり方がわかって下ろしてみたけれど、 下ろした体勢のまま、ぎっくり腰になっちゃって、 そこからどう動いていったらいいか、が、わからない状態のような気もする。 生まれたかぎり、生きていかなきゃいけないことは、悔しいけど、受け入れる。 自分を捨てられない人間だということも、しかたない、受け入れるしかない。 あとは…また、学んでいく。 まだまだまだまだ。 りょうこ
MBCJ(メンタルボディコーディネーションジャパン) Mary’s Care(マリーズケア)
住所 〒225-0003 神奈川県横浜市青葉区新石川1-29-6ガーデンシティ103号 電話番号 045-911-7051 営業時間 9:30~21:30 定休日 不定休 アクセス あざみ野駅より徒歩5分 駐車場 1台完備
24/04/16
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第32期ボディクラス:第3&4回(2018年4月6、12日)
参加者:ことこ、ひとみ、Tommy、ゆみ、よっしー、りょうこ
自分でも、何に挑戦しているのか、わからないのだけど。
やらなければいけない、と自分で思っていることを、いつまでやらないでいられるか、
ということに、もうずいぶん長いこと、挑戦しつづけている、ような気がする。
それによって、必ず、そんなこと(やらないでいること)やらないで、さっさとやれば
よかった、
という結論になることは、いつもいつもいつもいつも、わかっているのだけれど。
どういうわけだか、自分でやらなければいけないこと、をやらない、
ということに、チャレンジしつづけている。
ダラダラしたい、とか、ズルズルしたい、とか、グータラしたい、とか、
汚れたい、とか、汚いままでいたい、とか、だらしなくしたい、とか、
しょーもない自分の欲求には、すなおに従う。
そして、自分をどんどん、嫌いになる。
捨てたくなる。
いなくなりたくなる。
…でも。
捨てきれなくて。
結局、こんなわたしを立ち上がらせるのは、わたししかいない、と気づく、
ということを、繰り返す。
なに、このバカな繰り返し。
それを、気づけば、15のときから、ず~~~っと、やっている。
なにしてんだか。
15~18のときは、まだ、それでも、羞恥心、とか、見栄、とか、
希望、とか、理想、とか、怒り、とか…
細胞の細部が、今、生まれている感覚、というか、
生々しいエッジ感があった。
今、生きてるここが、自分のライフの崖の突端で、
その向こうはほんとに無、な、生々しい生の感覚が。
でも、18のとき、「あたしの人生は、終わった」と思った。
あ、あたしは終わりだ、と。
19~22のときは、ただの自堕落になった。
23はなぜだか、生きてる感じがしていた。
明るい一年だった。
24から、死んだ。
そのあと20代は、自分を、殺した。
30~33は、父の“ほんとの死”に直面し、34は覚えていなくて、
35で気がついたときは、「もう、取り返しがつかない」と思っていた。
ああ、そうか。
人間、どうやら、やり直しがきく、っていうのが正解らしいけど、
でも、あたしの人生、もう、取り返しがつかない、と。
36、37、38…と、「やばいやばいやばい」と思っていて、
39でとうとう、「病気」の看板をもらいました。
自分のつま先で立っている場所すら、この地球上にはないように感じていて。
前にもうしろにも、左にも右にも、上にも下にも、どこにも、
自分がいていい場所はないように感じていました。
「1+10」は簡単だったはずのに不安でわからなくなり、
「1+1」でさえ、わからなくなり。
呼吸のしかたが、わからなくなり。
なにも、やりかたが、わからなくなり。
いろいろ、忘れてしまいました。
自分を「いらない!!」と思っていたけど、
「こんなあたし、あたしは、いらない!!」と思っていたけど、
気がついたら、自分の脳に、わたしは、捨てられていました。
なんにもできないまま、3か月が過ぎ、
会社に行けないまま、5か月が過ぎ。
あるとき、ついていたテレビに雪景色が表れ、「初女さんのおにぎり」という
タイトルを見たとき、「あ、これはわたしにとって大切な番組が始まった」と
なぜか思って。
NHKのその佐藤初女さんの番組が終わったあと、起き上がることができました。
そして、包丁でにんじんの皮をむいて、じゃがいもの皮をむいて。
「あ、あたしにも、できることがあった…」と、気づいたのでした。
あ、洗濯ができた。
あ、スーパーで何を買ったらいいかわからなくならずに買うことができた。
あ、電車に乗れた…。
自分にできることがあることに、少しずつ、気づいていきました。
駅までの道中に、畳屋さんがあって。
深夜でもそこだけいつも電気がついていて、腰の曲がったおじさんが作業をしていて。
この街に住み始めてから5年以上、その姿を見てきていました。
あるとき、その姿に突き動かされるように、「あたしも、働きたい」と思いました。
それで、今の職場に、戻ることができました。
会社に行けなくなってから、7か月が過ぎていました。
復職して1~2年、つまり、40~41のころのことは、記憶は、あまり、ない。
でも、マリーズケアに出会い、ことこさんに出会い、
ボディクラスに入り、メンタルクラスで学び、フェイシャルクラスも経験し…
42、43、44、45を暮らし。
もうすぐ46になろうとしているときに。
あたしは、なにか、つかんでおかなければいけないものを簡単に手放してしまい、
捨てていけばいいものばかり、ぎゅっと握りつづけて手の中で腐らせている…
と感じています。
全然、これは、今回のワークでの体験の感想ではなくなってしまっているけれど、
でも、今のこのわたしは、今回のワークを経験した上でのわたしだから、
今回のワークの感想ではない、とは言い切れないのだ、と思いつつ。長い前置き。
なんで今さら、こんな振り返りをしているんだ、とわれながら思うけれど。
上がってきたのがこれだった…というか、これを書いてからでなくては
自分と向き合えなかった、というわけなので、お許しください。
で、ワーク。
はだしの、ワーク。
マリケアから「わーい」と飛び出して、ゆみちゃんに見守ってもらって、
目を閉じて、両手のひら・両足の裏を使って、手探り・足探りで公園を感じる。
すぐそばを、車が通る音がする。
その音の近さで、ずいぶん公園の端を“探索”していることは理解する。
靴音がしてくる。
気配を感じる。
それは、マイナスの、気配。
マイナス感情の。
「なに、この人(たち)」と思われているのが感じられる、負の気配。
靴音が遠ざかっていっても、そのわたし(たち)に向けられた「不審」の
感情は、わたしに刺されたまま、靴音といっしょに負の感情が糸を引く。
すぐ脇を“先輩”(幼児)がキャッキャと走り抜けるときは、
なにも感じないのに、それを見守る保護者の“揺らぎ”は感じる。
木や草たちは、“先輩”と同じ。
負の気配なんてものはまったく感じない。
感じられるとすれば、“おまかせ”の空気。
「はいはい。どうぞ、あなたの好きなようにしなさい」というような。
だから、わたしは、安心して、木に抱きつく。
わたしの手で、ほっぺで、鼻で、胸で、おなかで、ももで、足の裏で、
ぜ~んぶで、「ねぇねぇ、(桜の)木さん。ねぇねぇ!!」とくっつく。
木は「はいはい。好きなようにしたらいいわ」と、からだをあずけてくれる。
ゆだねてくれる。
わたしが感じたいように感じさせてくれる。
なんにもしてこない。
ただ、わたしが感じたいように、まかせてくれる。
まんま、そこにいてくれる。
わたしは、だから、安心して、抱きつく。
それを、不審げに見ているのであろうエネルギーを、靴音方向から感じながら。
でも、ゆみちゃんがいてくれるから、あたしは、だいじょうぶ。
好き放題、させてもらう。
かなりの許容度で、好き放題させてくれるゆみちゃんのサポートにくつろぎながら。
あたしも、この木みたいになりたい、と思う。
こんなふうに、「さあ、あなたの感じたいように、感じたらいいわ」と、
からだを開いて迎えられるひとになれたら、と思う。
「感じてもいいし、感じなくてもいい。あたしはここにいる。あなたは、あなた。
あなたのやりたいようにやったらいい」
すげ~なぁ、木は。
すげ~なぁ、公園は。
すげ~なぁ、先輩は。
気持ちいいなぁ…。
気持ちいいなぁ、この風。
気持ちいいなぁ、この光。
いいなぁ、このワーク。
サポートする側の役になって、みんなのワークする姿を見ながら、にんまりする。
ゆみちゃんの、ダンスするような、うしろさがりの“探索”。
木に背をあずけて、なにかを感じている姿の、美しさ。
遠くでペアになってワークするクラスメートたちの、美しさ。
春の光の中で、緑の若葉が美しくて、風がここちよくて、
足裏のセンサーが刺激されて、胸の窓がひとつ、また開いたようで…。
オープン。
そして、翌週のからだに触れる手技で、ことこさんが強調する「抜く」の大切さ。
「ゆっくり『抜く』ときに、大事に丁寧に『引く』ときに、
大切にされていると感じられる」
「ゆ~っくり放すときに『引く』『とる』」
「『抜く』『手放す』が『生きる力』を思いださせていく」
聴くたびに、深まる。
触れるたびに、深まる。
触れられるたびに、深まる。
わたしは、手放し方と、触れ方が、まだまだまだまだへたっぴだ。
やっと、自分を、感じられるような状態にできるかどうか、というところに
もってきつつある、のかもしれない。
まだまだまだまだ、自分がわからない。
自分を、知らない。
自分の荷物を下ろすやり方がわかって下ろしてみたけれど、
下ろした体勢のまま、ぎっくり腰になっちゃって、
そこからどう動いていったらいいか、が、わからない状態のような気もする。
生まれたかぎり、生きていかなきゃいけないことは、悔しいけど、受け入れる。
自分を捨てられない人間だということも、しかたない、受け入れるしかない。
あとは…また、学んでいく。
まだまだまだまだ。
りょうこ
MBCJ(メンタルボディコーディネーションジャパン)
Mary’s Care(マリーズケア)
住所 〒225-0003 神奈川県横浜市青葉区新石川1-29-6ガーデンシティ103号
電話番号 045-911-7051
営業時間 9:30~21:30
定休日 不定休
アクセス あざみ野駅より徒歩5分
駐車場 1台完備